明治19年7月
信濃教育会 結成
明治19年10月
「信濃教育会雑誌」(現 雑誌『信濃教育』)創刊
明治32年6月
新作唱歌「信濃の国」発表
明治40年6月
信濃図書館 設立
大正6年3月
メンデルの法則を教材として採用
昭和4年6月
信濃教育会館(現 生涯学習センター)竣工
昭和19年11月
信濃教育会 解散、大日本教育会長野県支部となる
昭和21年4月
「信濃教育会」の名称復活
昭和22年4月
教育研究所 創設
昭和24年5月
「社団法人 信濃教育会」として認可される
昭和26年4月
国語・理科教科書編集に着手(国語は昭和43年で中止)
昭和31年4月
各郡市教育会、各地区高校教育会、大学教育会による連合体的単一体となる
昭和50年4月
会員災害補償制度発足
昭和58年10月
新信濃教育会館(現会館)が落成
昭和59年5月
「信濃教育博物館」開設
昭和61年10月
創立100周年記念式典
昭和62年4月
「信州子ども絵画100年館」開設
生活科教科書「あおぞら」「そよかぜ」編集に着手
道徳資料集「わたしたちの道」「わたしの築くみちしるべ」編集に着手
生活科教科書「あおぞら」「そよかぜ」編集に着手
道徳資料集「わたしたちの道」「わたしの築くみちしるべ」編集に着手
平成2年7月
旧館を豊科町(現 安曇野市)に移築し、長野県生涯学習センター
(現 信濃教育会生涯学習センター)として発足
(現 信濃教育会生涯学習センター)として発足
平成7年9月
中国方正県日本人公墓に満州開拓民犠牲者慰霊碑「日中友好の碑」 建立
平成12年2月
信濃教育会生涯学習センターが登録有形文化財として登録される
平成18年4月
第60期教育研究所研修員派遣停止(19年4月第61期教育研究所研修員派遣復活)
平成19年10月
全県研究大会「自己課題に迫る研修」「参加型研究会(グループ別・体験工房)」を導入
「Booklet信教」にて成果を発信
「Booklet信教」にて成果を発信
平成21年4月
「信濃教育会維持財団」が吸収合併され、新「社団法人信濃教育会」が登記
平成22年8月
臨時総集会において公益社団法人信濃教育会定款が決議される
平成23年4月
「公益社団法人信濃教育会」登記
平成26年3月
奈良薬師寺東塔の解体修理で県内の学校名が記載された「瓦」が多数見つかる。
「里帰り」の気運が高まり「薬師寺東塔の瓦に関する決議」が総会で決議される
「里帰り」の気運が高まり「薬師寺東塔の瓦に関する決議」が総会で決議される
平成27年4月
定款改正 公益目的事業変更
平成27年6月
信濃教育会生涯学習センター駐車場土地取得
平成29年7月
「薬師寺東塔縁の瓦」里帰り式開催
平成30年12月
信濃教育会編道徳資料集「わたしたちの道」(小学校版)、
「わたしの築くみちしるべ」(中学校版)の研究調査及び編集事業の終了が決議される
「わたしの築くみちしるべ」(中学校版)の研究調査及び編集事業の終了が決議される
令和元年12月
「令和元年台風第19号による水災等に対する災害見舞金支払い(緊急案)」が決議される
令和2年12月
「理科教科書の研究及びその成果の編集事業の廃止」が決議される
公益社団法人信濃教育会 徽章・ロゴ
<槲(かしわ)の葉>
秋田県角館(かくのだて)出身の画家 平福百穂(ひらふく ひゃくすい)の作。
諏訪出身の教育者島木赤彦は、大正6年7月から9年3月まで雑誌『信濃教育』の編集主任を務めました。赤彦は大正3年より短歌雑誌『アララギ』の編集にかかわっていて、百穂もまた『アララギ』同人であり、自分の絵を頒布し『アララギ』を経済的に支援していました。二人は、明治30年代から親しく交流があったと言われています。
百穂は、赤彦とのかかわりから、信州教育に関心を寄せ「身内の者など受けている教育とは大いに趣を異にした健全なる教育が諏訪で行われているをうらやましく思い」「どうか郷里(秋田県角館)の方にも幾分なりその気風を行わせたい」と願って、角館の教員を諏訪に留学させていることからも、信州とのつながりの深さが想像できます。
大正3年文展三等賞を受賞。国内でも声価を高めていた百穂でしたが、信濃教育会との深いかかわりが縁で、大正4年から雑誌『信濃教育』の表紙画の揮毫を請け負いました。
百穂揮毫の「日本アルプスと樅(もみ)の木」「白樺林」「高山と雷鳥」「槲の葉」などの画が昭和27年12月まで『信濃教育』の表紙を飾りました。
信濃教育会のロゴのシンボルは「槲の葉」です。「信州の寒風に耐えながらも堂々と葉を広げる野生の槲の葉の逞しさを感じる」と、当時の記録にも記されている百穂の作品です。
槲の「厳しい冬の寒さの中でも落葉せず、春の新芽の成長を待って落葉する」その姿に、「先輩から後輩」「人から人へ」と教育の本質を伝え続ける信濃教育会の願いと営みを重ねて表現しました。
諏訪出身の教育者島木赤彦は、大正6年7月から9年3月まで雑誌『信濃教育』の編集主任を務めました。赤彦は大正3年より短歌雑誌『アララギ』の編集にかかわっていて、百穂もまた『アララギ』同人であり、自分の絵を頒布し『アララギ』を経済的に支援していました。二人は、明治30年代から親しく交流があったと言われています。
百穂は、赤彦とのかかわりから、信州教育に関心を寄せ「身内の者など受けている教育とは大いに趣を異にした健全なる教育が諏訪で行われているをうらやましく思い」「どうか郷里(秋田県角館)の方にも幾分なりその気風を行わせたい」と願って、角館の教員を諏訪に留学させていることからも、信州とのつながりの深さが想像できます。
大正3年文展三等賞を受賞。国内でも声価を高めていた百穂でしたが、信濃教育会との深いかかわりが縁で、大正4年から雑誌『信濃教育』の表紙画の揮毫を請け負いました。
百穂揮毫の「日本アルプスと樅(もみ)の木」「白樺林」「高山と雷鳥」「槲の葉」などの画が昭和27年12月まで『信濃教育』の表紙を飾りました。
信濃教育会のロゴのシンボルは「槲の葉」です。「信州の寒風に耐えながらも堂々と葉を広げる野生の槲の葉の逞しさを感じる」と、当時の記録にも記されている百穂の作品です。
槲の「厳しい冬の寒さの中でも落葉せず、春の新芽の成長を待って落葉する」その姿に、「先輩から後輩」「人から人へ」と教育の本質を伝え続ける信濃教育会の願いと営みを重ねて表現しました。
2020年(令和2年)9月